人は、このままではいけないとはわかっていても、それを変えることができずにいます。
「勉強しなきゃいけないのはわかってるけどついゲームしてしまう」「仕事をしなきゃとはわかってるけどやる気がでない」「だらしない性格を直したいけどできない」人にはそれぞれ「このままではいけない」と思っていることがあると思います。
それなのに変えられない、それによりさらに自己嫌悪に陥り自分を責め、何とか頑張ろうとしますができない、と言う負の連鎖にはまってしまいます。
そんなとき、どうしたらいいのでしょうか。
今回はそんなお話です。
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なぜ自分を変えることができないのか
あなたは信じられないかもしれませんが、自分を変えたいのにできない、そのときの心理状態や潜在意識では「変わりたくない」もしくは「変わるのは難しい」「変わるのは自分には無理だ」と考えていませんか?
勉強しなきゃと言うのはわかっていてもそれができないのは、本当は「勉強したい」と思っていないのではないでしょうか。
人はわかっているけど、と言いますが、それって本当にわかっているのですか?
確かに意識的にはわかっている、と言うのはわかります。
周りからこうしろ、ああしろ、と言われるのもなんでなのかはわかっている。
それでもできないのは、わかっているけど理解していないのかもしれません。
知識としては知ってても、それの本質として理解し、知恵となっていなければどんなにたくさんのことを知っていてもただの知識でしかありません。
知恵とは、その知っている知識を生かして行動すること。
人はわかっているけどできない、と言うとき、その知識を生かせていないのではないでしょうか。
そして、その知識を生かせていないのはそれを信じる事ができていない、または、信じたくないと思っているのではないでしょうか。
なぜ変えられないのか、それは変えたくない、変わりたくない、変わるのが難しい、つまり、自分が知っている知識だけでは変えられると思っていないのです。
それではわかっていても変わることはできませんね。
ではどうすれば人は変われるのでしょうか。
自分を変えるには信じること
このように「信じること」と言うと、多くの人は宗教的なものを意識し、胡散臭いとか、精神論かよ、などと言いますね。
それは否定しません。
重要なのは宗教が胡散臭いと思うのはなぜか、精神論では何がいけないのか、それをなぜ嫌な気持ちに捉えてしまうのかが重要です。
例えば、宗教で「信じる者は救われる」と言うのを胡散臭い、信じただけで救われるならみんな救われてるわ、と言う人がいます。確かに信じただけで救われるのか疑わしいですね。
ただ1つ確実に言えるのは、そう言う人は信じていませんよね。
だから宗教も嘘は言っていないと言うことになります。
なぜなら、信じていないその人は事実救われていないじゃないですか。
そのように言うひとに逆に聞きたいのですが、信じている人が救われている割合よりも、信じていない人が救われていない割合、どちらの方が多いのでしょうね。
精神論かよと言うことに関してはもっと単純です。
その精神ってなんでしょう。
心ってなんでしょう。
胸の方を指して「心」と言いますよね。
でも胸には心臓、肺、胃、それ以外に何がありますか?
私たち人間は心臓で感じるのですか?
違いますよね。
確かに胸がときめく、胸の鼓動が高鳴る、ドキドキする、など心臓が感情と連動して動くことはあります。
しかし、だからと言って心臓で物事を考えて感じているのではありませんよね。
つまり、心って心臓ではないんです。
では心はどこにあるのか、それは「脳」です。
精神って結局は脳のことを現す言葉です。
精神論と言うのは、脳の働きに基づいた理論だと言うことです。
精神論が云々、気合いが云々はつまるところ脳の働きのことを指します。
信じる事で救わると思うなら信じれば救われるでしょう。
信じても救われないと思うなら救われないでしょう。
そもそも救われるって何でしょうか。
お金とか食料とか物質的なことを想像していませんか?
信じれば救われると言う言葉は、一言も「物質的に」とは言っていません。
救われるの基準にも「精神的に」救われると言う解釈の仕方もありますよね。
いろんな人が信じれば何とかなるとか、信じれば救われると言いますが、そのどれも物質的にとは言っていないはずです。
つまり、信じることで何が救われるのかと言うと、精神的に、心が救われるのではないでしょうか。
「信じれば自分を変えられる」は変えようとする意思表示のこと
誤解される方も多いかもしれませんが、信じれば変えられるのは、「自分は変わる」と信じることで、自分を変えるんだと言う意思表示になると言うことです。
今までは「わかっているけどできない」と思っていて、なんならそれを発言していましたね。
「変えたいのにできない」の「変えたい」ってなんで「変えたい」って言うのかわかりますか?その言葉の裏に隠されているのは「できていない」と言う気持ちです。
「勉強をしなきゃいけないのにできない」は「勉強していない」ってことですよね。自分で勉強していないって言っているのですよ。要するにしたくないって言っているんです。
なのにわかってるけどできないなどと勝手に落ち込んでいるのです。
ただやりたくないのにです。
別に避難しているわけではありません。
ただ自分で「やりたくない」と発言しているのにどうして変えられるのです。
本当に変えたいんですかね?
本当に変えたいのなら、今すぐ、「変えたい」とか、~したい、~なりたい、と言う言葉を封印するべきです。
本当に変わろうと思うなら、変える、変わる、~する、~になる、と断言してください。
人が断言しないのは、それに自信がないから、つまり変わろうと思っていないからです。
私の言っていること難しいと思いますか?
よく考えてください。
言葉の語尾を変えろと言っているだけですよ。
大事なことなのでもう一度言います。
本当に変えたい変わりたいと思うなら、~したい、~になりたい、などの語尾を「たい」とつけず、変える、変わる、~する、~になる、などの語尾を「る」とするだけです。
これができない難しい不可能ありえないと言うなら、最初に言ったように、本当は変わりたくないんです。
別に変わりたくないならそれで一向に構いませんよ。
それならそれで素直になった方が楽なんじゃないですか?
自分にも他人にも嘘をついて過ごすの面倒くさいですし、疲れませんか?
反論させるのが嫌なら、反論されないようになぜしないのか。
あなたの善悪ってなんでしょう。あなたの好き嫌いってなんでしょう。
したいことだけするのがなぜいけないのでしょう。
全部自分がこだわっているだけではないでしょうか。
これをあなたは信じられないかもしれません。
理由は様々です。
「こだわりが強すぎて逆のことを信じられないから」「どこの馬の骨かもわからない者の言葉を信じられないから」「意味がわからないから」いろいろ感じるでしょう。
ただ本当は、「信じたくないから」「人を選んで信じたいから」「意味を分かろうとしていないから」です。
苦しさに目を向けるのも、楽しさに目を向けるのもあなたの自由です。
全てはあなたが決めるのですよ。
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コメント
自分を変えたいから、こういうブログとか必死で読み漁っています。しかしどこを読んでも具体案はなく、抽象的な表現しか記されたことしか書いてないので、読んだところでさーっぱりわかりません。こちらもやっぱり無理でした。ごめんなさい。
抽象的な案しか出せなくてすみませんでした。
ただ自己弁護になってしまいますが、こういったネットも本も抽象的な表現になるのは不特定多数の人に向けたメッセージとなっているからです。
人によってわかりやすい言い方、やりやすいやり方、そろぞれ違うものです。
しかし、こういった記事を読む方々はわからないから読んでいることであって、抽象的な表現をされてもピンとこないところはありますよね。
お力になれずすみません。
通り一辺倒になってしまい申し訳ありませんが、自分を変えることはある意味真逆とも言える方法ですが今の自分を認めることから始まるのではないかと思います。
自分を変えたいと思う状態は、言い換えれば自分を否定している状態です。
変えたいのに変えなくて良いんだと認めることになるのですから真逆とも思えるやり方かもしれませんが、自分を否定している状態から肯定する状態に変わるのですから一見全く変わっていないように思えたとしても、それは実は大きな変化の一歩につながるのではないかと思います。
こういう抽象的な表現しかできなくてすみませんが、少しでもお役に立てれば幸いです。