一般的に親切にする事や、誰かに対し奉仕する事を人は優しいと言います。
時には自分の時間や、自分の苦労を惜しまず人につくすような人もいて、そのような人を素晴らしい人だと認識する事が多くあります。
確かにこのような人と言うのは、とても素晴らしい人だと思いますが、自分には無理だと言う人や、そんな事なんでできるのかなど素晴らしい事だとは思いつつも自分がする事はできないと思っている人も少なくないと思います。
しかし、実は人に親切にしている人はそれが自分のためになっているからだと知っています。
今回はそんな親切にする事についてお話していきます。
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人に親切にする事で自分にメリットがある
例えば、高齢者に電車で席を譲る事は親切な行為のよくある例ですが、これらは単にその高齢者に対して親切にする気持ちだけでしている人はそうそういないでしょう。
こう聞くと打算的な印象を与えてしまうかもしれませんが、電車で席を譲ると言う行為には、人に親切にしたと言う事実が自分の中に残ると言う事があります。
その高齢者の方が腰や足が辛いだろうと思い、席を譲るのですが、実際には人前でそんなことすれば偽善者だと思われるのではないかなどの考えが邪魔をして、なかなか行動にうつせないと言う人がほとんどだと思います。
こう言った行動をスムーズに移すには、慣れが必要で、何度かする事でそれがそんなに大したことではないと言う事を理解する事でスムーズに行えるようになります。
ですが、その場合最初は勇気をもって行動しなければなりません。
親切な行動ができる人は、実はある秘密を知っているから行動できるのです。
その秘密とは「情けは人の為ならず」と言う言葉に隠されています。
情けは人の為ならずに隠された秘密
その秘密とは、実は人が人に親切にする時、それが本当に相手にとっては求めていない事でも、親切をしたと言う事実から心理的に気持ちいい事として感じられます。
いきなり電車で席を譲る行為は、たくさん人のいる中勇気をもってしなければなりません。
しかし、小さな事であれば誰でも少ない勇気で親切にする事ができます。
つまり、普段から親切にしている人は、小さな親切を重ね、親切をする事で心理的に気持ちが良くなる事を知っているのです。
それこそが「情けは人の為ならず」と言う言葉が表す意味です。
人のためにしているような事でも、それが親切な事だとすれば、相手から見返りがなくとも、実は見返りがあるのです。
電車で席を譲る事で、何かがもらえるわけではありません。
ただその行動で、自分の心が満たされるので、それが見返りとなって行動するのです。
周りから見れば自分を犠牲にしているように見えますが、その人の中ではちゃんと報酬があって、それを得る事ができるためしているので変に偽善のように感じませんし、裏を感じないのです。
こう言った行為は、心が貧しい人には特にやってほしい事の1つです。
類は友を呼ぶと言います。
心の貧しい人は、自分の利益ばかり考え、自分に対し目先の利益や目先の報酬ばかりに目が行き、いかに自分が得するかを考えますが、逆に言えば、そう考える人の周りにはそう言った人が集まるようになり、どんどん生きづらい環境となっていきます。
このような人は、自分の利益と相手の利益が両立するとは考える事ができません。
自分がリンゴを得れば、誰かはリンゴを得る事ができないと考えがちですが、その代わり別のミカンやブドウは得る事ができるかもしれません。
リンゴを売る側なら、リンゴを失う代わりにお金を得ます。
実は世の中は何かを得れば何かを失うようにできています。
その逆もまた然りで、何かを失えば何かを得る事になります。
親切な事は一見すれば自分の時間、余計な労力、時にはお金など、失う一方のように見え、優越感も含め、感謝される事、気持ちが良くなる事などその分何かを得ているのです。これは世の中の真理の1つで、一方的に失う事や、一方的に得る事はありません。必ず得ると同時に失っていて、失うと同時に得ているのです。
おわりに
以上のように、親切する人が一方的に人に与えているだけではなく、その分人から何かをもらっている事でもあると言う事です。
そのため、ボランティアなどもお金をもらわずむしろお金を払ってまでも奉仕する事がありますが、それらもそのしている本人には何か得るものがあり、それが失うものよりも価値があると感じるからこそしている行為だといます。
やらない善よりやる偽善と言う言葉もあるぐらいです。
それが良い事なのかはわかりませんが、しないよりはした方が確実に得るものがあるでしょう。
それに善や悪とは、結局の所その人の立場や地域など人により善悪の基準は異なり、中には全くの逆と言う事さえあります。
あなたが正しいと思っている事や、正しくないと思っている事も、あなたの友人にとっては反対かもしれません。
一概にどちらが良い・悪いとは言えないのです。
つまり、偽善だなんだと言う事は、その人にとってはそれは偽善であり、言い換えれば悪なのです。 しかし、それを受ける方からすればそれは善であり、親切な事かもしれません。
どちらにせよ、それが犯罪や法律など国で定められている事以外であれば何をしても基本的にはいいのです。
後は、それがいいか悪いかを決めるのは自分や受け取る相手次第です。
恋愛でも友人同士の付き合いでも、それを与えるのは自由で、そうしたからと言って、何かの見返りを求める事はできません。
なぜなら、自分が良いと思ってした時点で、もうすでに気持ちが良くなると言う見返りを得ているのですから、そうしたからと言って相手にもそうしてもらう事はできません。
もしそうしたいのなら、最初からそう言ってするべきです。
勝手に期待して、勝手に裏切られ傷ついている人は多くいますが、それらは新設の押し売りと言わざるを得ません。
親切とは相手からの見返りを求める事とは違いますので、ご注意ください。
それで画は今回はこれで以上です。
また次回お楽しみに。
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